エカワ珈琲店版、コーヒー伝播史

1992年、中公新書から出版されて、2019年の現在でロングセラーを続けている臼井隆一郎さんの名著『コーヒーが廻り世界史が廻る』の端書を引用します。

東アフリカ原産の豆を原料とし、イスラームの宗教的観念を背景に誕生したコーヒー、近東にコーヒーの家を作り出す。ロンドンに渡りコーヒー・ハウスとなって近代市民社会の諸制度を準備し、パリではフランス革命に立ち合い、「自由・平等・博愛」を謳いあげる。その一方、植民地での搾取と人種差別にかかわり、のちにドイツで市民社会の鬼っ子ファシズムを生むに至る。コーヒーという商品の歴史を、現代文明のひとつの寓話として序述する。 

人類が珈琲を発見してから、今日、私たちが楽しんでいる嗜好飲料としてのコーヒーに至るまでの長い年月の歴史を語ってくれています。

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コーヒーの発見伝説とコーヒー飲用の始まり

世界で最も人気のある嗜好飲料「コーヒー」の歴史は、ヤギと修道士の発見伝説から始まります。ユーカースの「オールアバウトコーヒー」では、オマールの鳥による発見伝説とカルディーの羊による発見伝説が紹介されています。

世界中で栽培されているコーヒーノキ(アラビカ種)の起源がアビシニア高原(エチオピア)と推測されていることから、欧米では、カルディーの発見伝説の方が信ぴょう性が高いと考えられているようです。

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カルディーのコーヒー発見伝説(エチオピア)

ある特定の木(灌木)に成る赤い果実を羊が食べると、その羊が興奮して(活力が溢れて)騒ぎ夜も眠らない状態になっているのに羊飼いのカルディー気づき、それがきっかけでコーヒーが発見されたという伝説です。

彼は、地元の修道院に赤い果実の出来事を報告します。報告を受けた修道院では、何かのきっかけで、コーヒー豆を焙煎して熱湯に浸すと香りの良い褐色の飲み物が出来上がることを発見します。

その褐色の飲み物は、気分を爽快にしてくれて眠気から解放してくれるということで、夜の祈りに欠かせない飲み物になったという伝説です。

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アラビア半島から

その後、コーヒーは、エチオピアからアラビア半島に伝わります。そして、アラビア半島から世界中にコーヒーの飲用が伝播して行きます。

15世紀頃までに、アラビア半島のイエメンでコーヒーノキが栽培されるようになっていて、16世紀には、ペルシャ、エジブト、シリア、トルコへとコーヒーの飲用が広がっていきます。

最初、コーヒーは、修道僧の間で宗教的な目的に利用されていたわけですが、一般の回教徒にも飲用が許されると、瞬く間に、一般大衆にも愛される飲料となって行きます。

回教寺院の近くにはコーヒーを売る露店が登場して、一般大衆にコーヒーを売るようになって、16世紀の中頃には、有閑階級の人たちが集う場所であるコーヒーハウスも登場して来ました。

 

コーヒーがヨーロッパにやって来た

17世紀になると、イスラム教徒の飲み物であるコーヒーが、ローマ法王の洗礼を受けてヨーロッパのキリスト教の間にも広がって行きます。ヨーロッパに伝わった当初は、コーヒーが持っている薬としての効果が受け入れられて、万能薬として販売されていたようです。

当時、アラビア半島のモカ港から積み出されたコーヒー豆を使って焙煎していて、器具や飲み方もトルコ式のコーヒーそのままだったと伝えられています。

 

ローマ法王クレメンス8世のコーヒー洗礼

回教圏で人気の飲み物コーヒーの情報をヨーロッパに伝えたのは、回教圏を旅したヨーロッパ人たちです。最初にコーヒーをヨーロッパに持ち込んだのはヴェネチアの商人で、1615年のことだと伝えられています。

コーヒーがヨーロッパにやって来た頃、キリスト教の牧師たちから、コーヒーは異教徒(イスラム教徒)の飲み物だという非難が広がります。時の法王クレメンス8世は、コーヒーを美味しい飲み物と感じていたので、コーヒーに洗礼を施してキリスト教徒の飲み物にしてしまったという「コーヒー洗礼」の話は広く知られています。

 

ロンドンのコーヒーハウス

洗礼を受けてキリスト教徒の飲み物となったコーヒーは、ヨーロッパの主要都市で広がって行きます。

1652年、ロンドンの一隅で一軒のコーヒーハウスが誕生します。この最初のコーヒーハウスに関しては、色々と軋轢があったようですが、兎にも角にも、ロンドンのコーヒーハウスは増え続けて、1683年には3000軒、1714年には8000軒に達したと伝えられています。

コーヒーハウスは、ヨーロッパの国々の主要都市で一種の公共の場としての役割を担っていたのだと思います。例えば、ロンドンのコーヒーハウスで1ペニーを支払ってコーヒーを注文すれば、政治上のニュースを聞いて様々な出来事について話し合うことができました。

 

ペニー大学とロイズ保険取引所(保険市場)

ロンドンのコーヒーハウスですが、1ペニー支払えば、大学のように色々な知識を吸収できるということで、ペニー大学とも呼ばれていました。

数多くのコーヒーハウスが林立していたロンドンでは、立地の違いで、商人の集まる店、芸術家の集まる店、仲買人の集まる店、船乗りの集まる店と、それぞれの店がそれぞれの同好のお客さんを集めるようになって行きます。

例えば、ロイズは、最初は船乗りや商人が休息に訪れるコーヒーハウスでしたが、船舶情報をすばやく把握できることで有名になって、世界的な保険取引所へと発展して行きました。

 

コーヒーの北米大陸への伝来

1607年、北米大陸にヴァージニア植民地を建設したジョン・スミスは、若い頃、トルコに旅して、すでにコーヒーに馴染んでいたようです。

1600年代の半ば頃、当時、オランダの統治下にあったニューヨークでは、コーヒーが市場に出回っていて、アラビア半島のモカから定期的にコーヒーを輸入するルートも存在していたと伝えられています。

1600年代(17世紀)の後半、イギリス統治となったニューヨークでは、コーヒー豆を焙煎粉砕して抽出したコーヒーに、砂糖やハチミツやシナモンを添加して飲んでいたと記録されています。

 

北米大陸のコーヒーハウス

ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアと、アメリカ各地にコーヒーハウスが建てられて行きました。アメリカ合衆国におけるコーヒーの歴史物語ですが、初期(植民地時代)の頃は、これらコーヒーハウスの物語が大半を占めています。

初期(植民地時代)の頃のコーヒーハウスは、公共の場として社会に大きな影響を与えていて、コーヒーハウスの前で奴隷売買が行われていたという話も伝えられています。

その後、アメリカのコーヒーハウスは、居酒屋的な店へと変化して行きました。

 

ボストン茶会事件

 1973年、アメリカ独立戦争の前哨戦となる「ボストン茶会事件」が起こります。当時のアメリカ植民地の人たちは紅茶を愛飲していましたが、紅茶の輸入には税金がかけられていました。

この課税に反対するアメリカ植民地の人たちの運動が契機となって、ボストンの人たちが港に停泊していたイギリス船を襲って茶箱を海に投げ捨てる事件が発生します。

この事件を契機として、アメリカでは、お茶よりもコーヒーが飲まれるようになって行ったと言われています。

 

コーヒーノキの移植時代

1600年代の初めころ(17世紀初頭)、インドの回教僧がメッカに巡礼した時、7個のコーヒー種子を密かに持ち帰って、マイソールで移植に成功したという伝説があります。

当時、コーヒー栽培の中心はイエメンで、人気の輸出商品であるコーヒーの栽培を独占しようと、苗木や種子の持ち出しは禁じられていました。一方、コーヒー消費量が増えていたヨーロッパ諸国は、コーヒーノキを自国の勢力範囲内で栽培したいと考えていました。 

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オランダ

17世紀初頭、インドの回教僧ババ・ボーデンがメッカから持ち帰ったコーヒー種子の移植が成功して、17世紀(1600年代)も終わりころになると、インドのマラバールやセイロン島(スリランカ)で、オランダ人による小規模なコーヒーノキの栽培が始まっていました。

インドでのコーヒーノキの栽培については上手く行かなかったようですが、1700年頃になって、インドネシアのジャワ島に移植したコーヒーノキの栽培が成功して、18世紀の初頭、コーヒー貿易におけるオランダの影響力が大きくなっていました。

 

コーヒーノキがアムステルダムにやって来る

1706年、ジャワ島から、コーヒーノキがアムステルダムの植物園に送られて来ます。そして、植物園で見事に育ちます。

1713年、ユトレヒト条約締結のお祝いに、翌年(1714年)、アムステルダム市長からフランスのルイ14世に、植物園でできたコーヒーノキの若木が献上されます。そして、フランスの王室植物園は、この苗木の繁殖に成功します。

フランスは、コーヒーノキを自国の植民地に移植させようとします。西インド諸島への移植はなかなか成功しなかったわけですが、アフリカのブルボン島(現在のレユニオン島)への移植には成功しています。ブルボン島のコーヒーノキは、その後、ブラジルに移植されて「ブルボン・サントス」となります。

 

ガブリエル・ド・クリュー

1723年、自分に配給される飲料水をコーヒーノキの苗木に与えるなど、苦しい航海を続けた後、コーヒーノキのマルチニック島移植に成功したのが、フランスの海軍将校カブリエル・ド・クリューです。

カブリエル・ド・クリューのコーヒー冒険物語では、帰国していたド・クリューが、たまたまコーヒーのことを知ってマルチニック島移植を思いつきますが、植物園は苗木を譲ってくれません。そこで、植物園長と知り合いの貴婦人と親しくなって、その貴婦人の口添えで苗木を手に入れたというエピソードが広く知られています。

 

日本コーヒー伝播史

江戸に幕府が開かれていた元禄時代(1700年前後)の頃、すでに長崎の出島でオランダ人たちがコーヒーを楽しんでいて、出島のオランダ商館に出入りの日本人も一緒に飲んでいたと伝えられています。

 

太田蜀山人、コーヒーを飲む

田沼意次の時代と松平定信の寛政改革の時代を幕府御家人として生きて、文人(狂歌・随筆)・食通として知られている太田蜀山人は、長崎奉行所に勤務していた1804年にオランダ船内にてコーヒーを飲んでいます。

その感想を、「紅毛船にてカウヒイというものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪えず」と書き残しています。この記述が、日本人が初めてコーヒーの味について記した文だと言われています。

鎖国の時代、コーヒーを知っていた日本人は、ごくごく少数の人たちだけだったと推察できます。

 

ペルー来航とコーヒー 

日本人が本格的にコーヒーと出会うは、1854年、浦賀にペルーがやって来て開国されて、コーヒーの輸入が始まった1858年以降のことだと言われています。

横浜、神戸、函館、長崎などの開港地でコーヒーが飲まれるようになって、それが日本全国に広がって行ったと推察できます。

 

鄭永慶と可否茶館 

明治5年頃のコーヒー豆輸入量は40~45トンくらいで、明治の終わりごろでその2倍の輸入量と記録されているので、広がり方は相当にゆっくりしていたようです。

ちなみに、日本で最初の本格的な喫茶店は明治21年(1888年)4月13日、鄭永慶が東京上野西黒門町に開いた「可否茶館」ですが、赤字経営が続き、明治25年に廃業しています。経営者の鄭永慶は、多額の負債を背負ったと伝えられています。