【珈琲物語】年老いた珈琲豆焙煎屋の珈琲物語

年老いた珈琲豆焙煎屋は、連れ合いと2人だけで零細生業パパママ規模のコーヒー豆自家焙煎店を和歌山市で営んでいます。その店の屋号は「エカワ珈琲店」です。そのエカワ珈琲店が発信しているコーヒーストリーを楽しんで頂けたら幸いです

蜀山人(しょくさんじん)、太田南畝(おおたなんぽ)

太田南畝(おおたなんぽ)、通称『蜀山人(しょくさんじん)』は、食の世界では歴史上の有名人です。

もちろん、コーヒーの世界でも蜀山人(しょくさんじん)は有名で、20世紀に刊行されたコーヒー関係書物で蜀山人(しょくさんじん)という名前をよく見たものです。

彼の残した「コーヒーは焦げくさくて味ふるに堪えず」という言葉は、よく知られています。

 

太田南畝(おおたなんぽ)

蜀山人(蜀山人)、太田南畝(おおたなんぽ)は、本名が覃(ふかし)、通称名は直次郎。

江戸時代の中期と後期を代表する狂歌師・劇作家。御家人で幕府の官吏。

1749年生まれで、1823年、75歳で亡くなっています。

食通で、料理についての造詣(ぞうけい)が深く、「会席料理仕様帳」という本を出版しています。

 

蜀山人の生立ち

蜀山人(しょくさんじん)は1749年(寛延2年)、幕府の御徒だった太田正智(吉左エ門)の長男として江戸牛込仲御徒町で生まれたと伝えられています。

通称は直次郎、七左衛門。南畝、蜀山人の号などでも知られます。狂名の四方赤良(よものあから)というのも有名です。

下級武士(御家人)の貧しい家だったので学問で身を立てようと、15歳で牛込加賀町に住む幕臣で江戸六歌仙の1人・内山賀邸に入門し勉学に励んだと伝えられています。

 

グルメ小説

1784年(天明4年)、小説「頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」を発表します。

高級料理店「桝屋」に江戸の料理店が料理で勝負を挑む物語、グルメ小説としての高い評価を受けています。

 

幕臣(幕府役人)になる

17歳で父親の跡を継いで幕臣となるも、その後も勉学に励み頭角を現して行きます。

当時は、田沼意次が老中の時代で、学問や文化が花開いていた時代ですから、蜀山人(太田南畝)も活躍していたようです。

蜀山人の家は、水泳の泳ぎ方を伝える泳法の家でしたから、学問だけでなくて水泳にも長じていたと伝えられています。

 

大坂銅座に勤務

太田南畝(おおたなんぽ)は狂歌を読むのをやめていたのですが、1801年、大坂銅座に勤務していた頃、「蜀山人(しょくさんじん)」という号で狂歌を再び読み始め、太田南畝(おおたなんぽ)という名前よりも、蜀山人(しょくさんじん)という号のほうが有名になったようです。

 

寛政の改革

田沼意次が失脚して、松平定信が老中首座となって寛政の改革が始まります。緊縮政策・世の引き締めなど江戸の庶民生活を圧迫する改革で、狂歌で政治を批判すると即刻取り締まりの対象となって役人に処罰されてしまいます。

蜀山人は幕臣ですから、狂歌読みは幕臣として致命傷になる可能性が高いので狂歌を読むのをやめて幕府の仕事に精を出したと伝えられています。

46歳の時、昌平坂学問所で学問吟味(人材登用試験)に挑戦して、御目見え以下の身分の首席で合格したとも伝えられています。

 

長崎奉行所に勤務

1804年(文化元年)に長崎奉行所に赴任します。長崎奉行所勤務については、左遷されたという風聞も残っています。

太田南畝(おおたなんぽ)/蜀山人(しょくさんじん)は、長崎奉行所で勤務していた1804年頃、コーヒーを飲んだ経験を以下のように書き残しています。

紅毛船にてカウヒイというものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくて味ふるに堪えず

これが、日本で最初のコーヒー飲用体験記だと伝えられています。

 

コーヒー伝来 

日本にコーヒーがもたらされたのは元禄時代で、長崎のオランダ商館を通じてだとされていますが、信頼に足る記録が残っていません。

文化文政年間あたりから、蘭学者たちがコーヒーを飲んだ経験を書き残していて、太田南畝(おおたなんぽ)/蜀山人(しょくさんじん)の書き残しているコーヒー体験の記述が、日本で最初のコーヒー飲用体験記だと伝えられているわけです。

太田南畝(おおたなんぽ)/蜀山人(しょくさんじん)のコーヒー飲用体験記は、1804年に出版された瓊浦又綴(けいほゆうてつ)という随筆本に記述されているそうです。

ちなみに、日本へ本格的にコーヒーがもたらされたのは、日本が黒船によって太平の夢を破られた1854年以後のことで、本格的に輸入され始めたのが明治10年頃からだと言われています。

 

日本で最初のコーヒー飲用体験記 

太田南畝(おおたなんぽ)/蜀山人(しょくさんじん)は、長崎奉行所で勤務していた1804年頃、コーヒーを飲んだ経験を自分の著作で以下のように書き残しています。

紅毛船にてカウヒイというものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくて味ふるに堪えず

これが、日本で最初のコーヒー飲用体験記だと伝えられています。

日本にコーヒーがもたらされたのは元禄時代で、長崎のオランダ商館を通じてだとされていますが、信頼に足る記録が残っていません。

 

コーヒー伝来と黒船

文化文政年間あたりから、蘭学者たちがコーヒーを飲んだ経験を書き残していて、太田南畝(おおたなんぽ)/蜀山人(しょくさんじん)の書き残しているコーヒー体験の記述が、日本で最初のコーヒー飲用体験記だと伝えられているわけです。

太田南畝(おおたなんぽ)/蜀山人(しょくさんじん)のコーヒー飲用体験記は、1804年に出版された瓊浦又綴(けいほゆうてつ)という随筆本に記述されているそうです。

ちなみに、日本へ本格的にコーヒーがもたらされたのは、日本が黒船によって太平の夢を破られた1854年以後のことで、本格的に輸入され始めたのが明治10年頃からだと言われています。

 

太田南畝/蜀山人の履歴(まとめ)

太田南畝/蜀山人ですが、1794年、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格して、46歳~70歳まで幕府の官吏として働き、風俗史・経済史・書誌学などの貴重な文献を多数残していると、2001年12月に柴田書店から発行されている「コーヒーの事典/日本コーヒー文化学会編集」に記載されています。

辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と伝えられています。